思考記録場

日常生活の中で気になったことや、感じたこと、考えたことを記述するだけの場所。

そして、思い出す。

暑すぎる。まだ五月だというのに。まだ五月が始まったばかりだというのに。日本はどうしてしまったんだろうか。このままでは八月には五十度を超えてしまうのではないだろうか。いや、そんなわけないか。

 

こんなことを考えていると、去年の五月もそれなりに暑かった気がしてきた。Google先生に聞いてみよう。検索欄に『五月 気温 去年』と入力すると、Google先生は去年五月の東京の気温や名古屋の気温を教えてくれた。便利な世の中になったものである。

 

去年五月の名古屋の気温を見てみると、一日の最高気温が二十八・七度だった。初っ端から夏日を超えて真夏日に迫っていた。五月が暑すぎるのは今に始まったことではなかったようだ。なんだか安心した。

 

安心したが、暑すぎるという現状は変わらなかった。四月はちょっと肌寒いとすら思っていたのに。丁度いい気温は存在しないのだろうか。寒いか暑いしかないのだろうか。

 

五月はこんなに不快な気温をしていることを、どうして忘れていたんだろう。つい一年前にも、僕はこの不快な思いを経験していたはずなのに。

 

そんなことを考えているとバイトの時間が差し迫っていた。考え事をしていると時間が知らぬ間に消えていく。僕は急いで準備を進め、不快な気温に包まれながら自転車に跨った。

 

僕がバイト先へ向かう途中には綺麗な桜並木がある。四月はその桜を眺めながら自転車を漕ぐのが好きだった。まあ、もう五月なので桜の花は咲いていない。青々とした若葉が茂っているだけだ。青い葉を揺らすだけなら桜も平凡な街路樹に過ぎない。僕は街路樹を眺めながら自転車を漕ぐのは好きじゃない。

 

五月に桜が咲いていないことは覚えていたので、特段期待もせずに桜並木のある道に差し掛かった。だから僕は目を見張ることになった。桜が若葉をまとったその下で、ツツジが綺麗な花を咲かせていた。本音を言うと、僕は花には詳しくないので、これはツツジではなくサツキかもしれなかった。間違えていたとしても、どちらもツツジ科なので多めに見て欲しい。とにかく、花に詳しくない僕ですら、その美しさに圧倒された。とても綺麗だと思った。五月の暑さがこの綺麗な花を誘導したのかと思うと、こんな気温も不思議と心地よく感じた。

 

五月に綺麗なツツジが咲くことを、どうして忘れていたんだろう。つい一年前にも、僕はこの花を綺麗だと思ったはずなのに。

 

僕ら人間は、つい一年前のことすら覚えていられないのかもしれない。もちろん、よっぽど心に残ったことは覚えているに違いないが、五月の暑さやツツジの開花を僕が忘れていたのは紛れもない事実だった。きっと忘れてしまうことの方が多いのだろうし、忘れることで救われている面もあるのかもしれない。

 

忘れることで救われることもあるのかもしれないが、何かを忘れるということは少し寂しいことのように思った。

 

しかし、たとえ忘れてしまったとしても、五月が来る度に、僕はこの暑さを思い出すのだろう。五月が来る度に、僕はツツジの美しさを思い出すのだろう。僕は僕が気づかないうちに何度も忘れて、そして思い出すのだろう。

 

今日も僕は何かを忘れ、そして、思い出す。