思考記録場

日常生活の中で気になったことや、感じたこと、考えたことを記述するだけの場所。

信じるものは救われる

まえがき

この文章は、文章でしか吐き出すことができなかった醜い思いが書き連ねられています。とても読めたものでは御座いません。決して人に勧められるものでもありません。無理して読んで頂かなくても結構です。

 

 

消えてしまいたい。そう思う時がある。どうしようもなく辛くて、苦しくて、死んだら楽になるのかなと思う時がある。こういう時、誰かを頼ればいいのだろうが、誰に頼ればいいのか分からないし、どう頼ればいいのかも分からない。

 

人に助けてもらうためには、自分から助けを求めなければならない。しかし、僕にはそれが出来ない。「大丈夫?」と聞かれれば、「大丈夫」と返してしまう。頭の端では大丈夫ではないと思っていても、自分さえ大丈夫だと思い込んでしまえば、気丈に振る舞いさえすれば、何もかもが丸く収まると思えてならないのだ。これが危険な思考であることは知っている。自分を追い込むだけであることは分かっている。それでもなお、僕は人を頼ることができない。

 

人に頼ったところで、僕の苦しみは解決するようなものではないとも思っている。僕が苦しみの丈をありったけ語ったところで、現状は何も変わらない。きっと頼った相手も同情しかできない。そんな同情は嬉しくないし、救われない。頼る前から、お前に僕の何がわかるんだと思えてならないのだ。我ながら、なんとも悲しい人間になってしまったなと感じる。

 

僕は僕という人間が大嫌いだ。僕がどれほど醜く、情けない人間であるかを知っているから。こんな醜態を人に晒しても、どうせ誰にも助けてもらえないだろう。忌み嫌われてしまうだろう。こんな僕でも、人に嫌われるのはやはり辛い。

 

僕は僕という人間が大嫌いだ。それなのに、僕の嫌いな僕のことを好きだという人がいた。僕は僕の嫌いな部分を見せないようにしていたので、なんだか騙しているようで申し訳なかった。日に日に罪悪感が溜まっていった。僕の嫌いな部分はいつまでも隠し通せるものではないと思った。僕のことを好きだというこの人が、いつかは僕の醜悪さに気づき、好きではなくなる日が来るのだろう。耐えられなかった。好きでなくなってしまう前に、嫌われてしまう前に、僕の方から別れを告げたいと思うのは自然なことだった。

 

遂に僕は、僕の好きな人にさえ醜態を見せることができず、頼ることが出来なかったのだ。僕の全てを教えてなお、あの人が僕のことを好きでいてくれると信じ抜くことができなかったのだ。信じるものは救われるとはよく言ったものだ。最愛の人ですら信じることができなかったこの僕に、一体誰が頼れようか。一体誰が手を差し伸べてくれようか。今となっては自らを嘲ることしかできない。

 

日に日に辛い思いは増していく。日に日に醜くなっていく。早く落ちる所まで落ちて楽になりたい。