思考記録場

日常生活の中で気になったことや、感じたこと、考えたことを記述するだけの場所。

二十円のヤンキー

洗い物に使っていたスポンジがボロボロになった。経年劣化だ。新しいスポンジを使おうと思った。

 

スポンジは近所のスーパーで買った。五個入りで百円だった。ひとつあたり二十円である。とても安い。

 

新しいスポンジはとても尖っていた。そしてとても硬かった。水に濡らしても和らぐことはない。社会に反抗する若者のようだと思った。

 

安かろう悪かろうなスポンジを買ってしまったと思った。しかし、一度スポンジに洗剤を付けると、スポンジは驚異的な泡立ちを見せた。洗い物が捗った。硬派なやつだが、根は真面目なのかもしれない。

 

思い返せば、以前使っていたスポンジは硬派なこいつとは真逆のようなやつだった。感触は柔らかいくせに、どれだけ洗剤を使っても泡立たないスポンジだった。誰にでもヘコヘコとこうべを垂れるだけで仕事のできない無能みたいなやつだった。スポンジは見かけによらないな。

 

新しいスポンジはなかなか使いやすかったが、こいつがいつまでも根は真面目なヤンキーでいるとは限らない。汚れと洗剤に揉まれた果てにはすっかり丸くなってしまって、以前のスポンジのようにヘコヘコし始めるかもしれない。そうならないことを願いたい。

 

まあ、スポンジがヘコヘコし始めたら新しいスポンジを使えばいいだけだ。なぜならこのスポンジは五個入りで百円だったのだから。まだ四つも余っている。こいつの代わりはいくらでもいる。

 

きっと、労働力を買い叩く経営者も同じ感情を抱いているのだろう。使える間は酷使して、使えなくなったら捨てればいい。代わりはいくらでもいるのだから。

 

僕もいつかは誰かの代わりとして社会に羽ばたいて、労働力を消費されるのだろう。そして労働力が枯渇した時、僕の代わりがやってくるのだろう。嫌なリレーである。

 

とはいっても、新しいスポンジ程の価値が僕にもあるのかどうかは明らかではない。もしかしたら僕は誰かの代わりにすらなれないかもしれない。誰かの代わりになれないことは唯一無二ということで、喜ばしいことなのかもしれないと思った。一方で、価値がないために唯一無二というのは如何なものかとも思った。

 

僕には僕の価値が分からないので、誰かに僕の価値を見出していただきたいものだ。それまではこのスポンジで洗い物をしながら生活するとしよう。

 

ただ、洗い物自体は大嫌いなので、誰かが僕の代わりにやってくれるならそれに越したことはない。