思考記録場

日常生活の中で気になったことや、感じたこと、考えたことを記述するだけの場所。

論理的感情論

この世には、論理的であることが絶対であるという人が散見される。科学系の本を読んで、論理的だと感動するような人や、感情論に対して、論理的でないと不快感を顕にするような人がこれに該当する。彼らは感情というものについて、論理的ではない、論理よりも低次元な物だと思っている節がある。はたして本当にそうだろうか。僕は、感情が低次元なのではなく、高次元であるが故に、科学的論理で説明しきれていないだけなのではないかと考える。

 

実は、僕も昔は論理至上主義な人間で、特に科学的な論を好んでいた。この世の現象は全て科学で証明できると信じていた(正直に言うと今でも信じている)。感情は科学で証明するまでもない残念な物だと考え、感情論を振りかざす人を低次元な人だと馬鹿にするような人間だった。しかし、今は、感情というものはとても複雑で、現代の科学ではうまく説明しきれないだけなのではと思い始めている。このように思い始めたのは主に2つの経験からである。

 

1つ目の経験は、高校三年生の頃に受けていた現代文の授業である。当時の現代文担当の先生は話が面白かったので、授業の内容を鮮明に覚えている。ただ現代文の問題を解くだけではなく、なぜこの登場人物がこのような行動をしているのか、なぜこのような感情を抱いているのか等を解説してくれた。その解説は科学的根拠は感じられなかったが、とても論理的で、実際その通りであると思えた。例えば、先生の話のひとつに、「人を嫌いになる時はお互いが同時に嫌いになる」というものがあった。大抵の場合は、1人が(あいつのこと嫌いだな)と思ったら、そう思われた相手も(あいつのこと嫌いだな)と思うというものだ。僕はこの話を聞いた時に感心し、実際にその通りだと思った。過度な恋愛感情を除けば(過度な恋愛感情ではこの限りでないということは、感情が複雑なものであることの根拠となる)、一方が好きで、もう一方が嫌いだという関係よりも、お互いに嫌いだとか、お互いに好きだという関係の方が圧倒的に多いように感じる。一方が嫌いになると、もう一方はこの雰囲気を感じ取り、ほぼ同時期に嫌いになると考えるのはごく自然だと感じた(偶にこの雰囲気を感じ取れない人もいるが、多くの人は感じ取れるだろうし、実際にこのような雰囲気を感じ取ったことのある人も多いと思う)。このように、先生は人の感情の話をよくしてくれたので、僕は感情というものが、実は論理的に説明できるものだと考えるようになった。

 

2つ目の経験は、大学に入ってから社会心理学の講義を受けたことである。僕は理学部の学生だが、社会心理学の入門講座のような講義を取ることが出来た。先生の話を聞いていると、どうやら社会心理学は、僕の経験上当たり前だと思うような内容を実験等で証明していく学問のようだった(入門講座なので、こう感じるのは当然だ。自慢をしたい訳ではない)。しかも、その当たり前だと思うような内容は近年の研究で証明されたものが多く存在していた。このことから僕は、実は感情というものを扱う論理は、かなり発展途上なのではないかと感じた。

 

これらのことから、感情とは論理的に説明可能だが、現代の科学では証明しきれない部分が多く存在する複雑なものであると感じたのだ。論理的な感情論というものは確かに存在するが、現時点ではこれを完璧に扱えない。僕は感情を科学的根拠を元にうまく説明できるようになりたいので、生命理学の分野から心理学にアプローチしていく研究者になりたいと考えている。

 

この文章が、読者諸君が感情とは何か、論理的とは何かを考えるきっかけになれば幸いだが、もし感情を見つめすぎて読者が病んでしまったとしても、僕は一切の責任を負わない。

 

以下は余談である。僕のように、感情とはこのように振る舞うものだと経験上わかる時がある。特に、小説家や、その中でも文豪と呼ばれる人々はこの経験が豊富で、感情の振る舞いを決定する要因を細部まで気づいているように感じる。この点では科学は文学にかなり劣っている。近年、大学の文系学部は縮小傾向にあるが、僕は文学部は残すべきだと感じている。残すと言うより、文学に対して科学的にアプローチしたり、科学に対して文学的にアプローチするような、文理融合学部へ昇華するべきだと考えている。

 

理系は文系を馬鹿にしがちだが、感情という分野において理系は圧倒的に文系に劣っている。少なくとも僕はそう感じた。文系を馬鹿にするのではなく、文系を尊重し、共に研究を深めることで、より深い発見が出来るのではないかと考えている。

 

よって僕は、僕の通う某大学理学部の中に、文学科と哲学科、地理学科の設立を提案する。きっとキャンパスライフが楽しくなる。今すぐ設立しよう!