思考記録場

日常生活の中で気になったことや、感じたこと、考えたことを記述するだけの場所。

好意と行為

生きていると、人に好意を寄せることがある。ただ、その好きな相手が、自分の寄せた好意を好意的に受け取ってくれるとは限らない。また、その好きな相手が、自分に対して自分と同程度の好意を寄せてくれるとは限らない。相手が自分からの好意を求めていないことに気つかずに、自分が好意を寄せすぎてしまうと、良い関係が築けない。相手が自分に好意を寄せていないことに気づかずに、自分が相手からの好意を求めすぎてしまうと、同様に良い関係が築けない。良い関係が築けないどころか、相手が不快に感じ、傷つけてしまう可能性すらある。

 

上のようなことを全く考えない人もいる。このような人は、だいたい相手の容姿だけを見て好意を寄せているように見える。本当に好意と呼べるのだろうか。それは行為がしたいだけなのではないか。たった皮膚1枚と骨格だけを見て、一体何に好意を寄せるというのか。本当にその相手のことを想っているのだろうか。一方的に好意を寄せて、相手から行為を求めて、相手の心情に気づけず、良い関係を築けず、暴言を吐き捨て、相手も掃き捨て……。僕はこういう人が大嫌いだ。

 

しかし、いざ自分がこういう人でないかと問われると、よく分からなくなる。もしかしたら自分も相手の容姿を好きになっただけなのではないか。内面など見てはいないのではないか。相手の気持ちなど何一つ分かっていないのではないか。こんなことを考えていると、僕が人を好きになることは悪いことなのではないかと思えてくる。人を傷つけないために、一生一人で生きていくべきなのではないかと思えてくる。何故人生は斯くも難しいのか。こんなことを考えていると、僕が生きていることは悪いことなのではないかと思えてくる。人を傷つけないために、一生を終わらせるべきなのではないかと思えてくる。何故人生は斯くも長いのか。

 

好意を寄せる人に行為を求めることは何の問題もないのかもしれない。生命としては当然のことなのかもしれない。それでも僕は行為を求めることは悪以外の何物でもないと思ってしまう。小さい頃から行為は悪いことかの如く教育をされてきたのだ。そういう漫画を読むなとか、そういう動画を見るなとか、そう言われて今まで育てられてきたのだ。妊娠は悪いことかのように教育されてきたのだ。今までの学校教育は僕にそう洗脳したのだ。どうして行為を良いものとして受け入れることができるだろうか。あまつさえ、好意を寄せる唯一無二の人に行為を求めるなど、悪と言わずに何とするのか。僕だけがこんな考えを持っているのだろうか。僕だけが洗脳にかかってしまったのだろうか。

 

僕は、僕の好きな人を、僕のせいで傷つけてしまうことが怖い。