思考記録場

日常生活の中で気になったことや、感じたこと、考えたことを記述するだけの場所。

三角関数は必要か?

今年の年明け直後、三角関数は学校で教えるべきか否か、論争が巻き起こった。

 

まず、三角関数は教えるべきでない派の意見を述べる。彼らは日常生活に必要か否かで判断している。日常生活で三角関数は使わないから全員に教える必要はなく、学びたい人のみ選択制で学ばせれば良い、というのが彼らの主張だ。確かに、日常生活で三角関数を用いることはほとんどない。正弦定理や余弦定理を用いて三角形の合同条件を日常的に証明する人は稀だろう。また、三角関数を用いた技術や商品の恩恵を享受することはあるが、それが三角関数のお陰だと思って享受する人は少ない。好きな人と電話をする度に、この声はどんなサインカーブかなぁ、と考える人はとても稀だろう。そういう稀な人のみ選択制で学べば良いというのは正論だ。三角関数を知らなくても十分に生活出来る。一般的に日常生活で使わないから、学校で教えるべきでないという理論は、因果関係がハッキリしているように感じる。

 

多くの人がここまでの文章を読んで、三角関数は学ぶ必要がないとお思いになるかもしれない。高校で三角関数に苦しめられた過去を持つ人は大いに賛同するだろう。理系のプライドを持つ人は三角関数が必要だと思うかもしれないが、その理由を聞かれると、「学ばないのは頭が悪いだけ」や、「普通に楽しいでしょ?」等と言うように、論理的でない感情論を持ち出し、結局のところなぜ三角関数を学ぶ必要があるのかをうまく説明できないことがあるのではないかと思われる(感情論がいけないと言うわけではない。ここではその感情が世間一般に通用する可能性が低いことが問題であると考える)。実際、僕が後者の人間で、初めはうまく理由を説明できなかった。元々三角関数を学んだのは、高校で教えられたからという受動的な理由に過ぎず、教えられなければ知らなかっただろうし、知らなかったからといって日常生活で困っただろうとも思わなかった。そこで僕はこの問題について考え続け、ひとつの結論にたどり着いた。その結論は、日常生活に必要だから学校で教える訳ではなく、国の発展に必要だから教えるということだ。

 

つまり、僕は三角関数は教えるべき派であり、教えるべきでない派が主張する理論は、因果関係の原因の部分がそもそも間違いであるという考えに至ったのだ。僕の思考の元になったのは福沢諭吉の「学問のすゝめ」だ。まずはこの本の内容を少し説明する。

 

この本は明治初期に書かれたもので、日本国民は学問をすべきだという旨の内容が書かれている。「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと言えり。」という冒頭は非常に有名で、聞いたことがある人もいるだろう。しかし、これはあくまで天は平等に人を造るということであり、実際に生活する人々には差がある。福沢はこの差を人々が勉強するか否かだと主張している。この本が書かれた時代は西洋諸国と日本には発展度合いに差があった。これも国民が勉強するか否かであり、西洋諸国に追いつくためには、国民が学問に励まなければならないと福沢は考えた。大雑把な概要はこんなところだ。詳しく知りたい人は、既に著作権が切れておりネット上で読み放題なので、1度読んでみて欲しい。

 

すなわち、福沢が学問を勧めた理由は「国の発展に必要だから」であり、「日常生活に必要だから」ではない。根本として学校は日常生活に必要なことを教える場ではないのだ。もちろん、学校教育の中で、日常生活に役立つものもあるが、多くは必要ないものだろう。あらゆる知識や考え方を身に付け、個人の心身を共に成長させ、社会貢献に役立ててもらうことが学校教育の目的だと考える。よって、日常生活で必要ないから教える必要がないという理論は、とても論理的で正しいが、そもそも因果関係の原因の部分が間違いであるので、結果の部分も間違いである。というのが僕が主に2〜3週間ほど考え続けた結論だ(常に考えていた訳ではない。いつも頭の片隅に居座られていて、やることがなくなるとこいつが顔を出してきたため、考えざるを得なかった)。

 

三角関数以外にも、ベクトルや、元素の周期表、無機定性方法など、様々なものが不要だと言われているが、これらに対しても同様に、日常生活に必要ないからだという論は間違えていると考える。

 

しかしながら、時代が変化するにつれて、学校教育のあり方も変化していかなければならない。世の中の全てを教えることは不可能なので、時代によって、教える内容の取捨選択が必要だ。我々は子供達に何を教えるべきか常に考えなければならない。

 

この文章が、三角関数は学校教育に必要か否か、読者が1度考えるきっかけになれば幸いだ。