思考記録場

日常生活の中で気になったことや、感じたこと、考えたことを記述するだけの場所。

親の死に目

注意、以下の文章は、人によってはとても腹立たしく感じることが予測される。それでも良いという人だけ読むことを勧める。

 

「親の死に目に会えない」という言葉がある。「夜に爪を切ると親の死に目に会えないよ!」というように、まるで親の死に目に会えないことがとても残念であるかのように使われる。本当に親の死に目に会う必要があるのか。これは議論せねばならない。

 

ここから僕の考えを述べるが、現時点で僕の両親は健在だ。それどころか祖父母ですらピンピンしており、喜ばしいことに一向に死ぬ気配がない。よって、僕は人生において1度も家族の死を経験したことがない(ここで言う家族とはホモ・サピエンスの家族のことであり、ペットは含まない。ペットを含むと、僕はハムスター、カダヤシコクワガタモウセンゴケ、その他多くの水生生物や昆虫、植物の死を経験している)。家族の死を経験したことのある人からすれば、大変遺憾な文章かもしれないことを念頭に置いた上で読み進めて欲しい。

 

僕は親の死に目に会えなくても残念だとは思わない。むしろ、合わないに越したことはないと思う。親が死ぬ瞬間を看取って、一体何が良いのかわからない。心電図がピーッと音を立て、医者が「ご臨終です」と言った時に、何と返事をすればいいのかわからない。ドラマなどを見ると泣き叫んだりする人もいるようだが、僕は両親のことをそこまで好いている訳ではないので、親が死んでも泣ける自信がない。ああ、死んだのか、としか思わないだろう。この感想は、死に目に会おうが合わまいが変わらないことが予測される。よって、僕の視点から言うと、親の死に目に会う必要はあまり感じられない。

 

しかし、親からすれば、人生最後の瞬間に家族がそばにいて欲しいと思うかもしれない。死の間際に、今まで育ててきた息子を見ることで、様々な感情が沸き起こることは想像できる。僕だけでなく家族を見ることで、何か得るものがあり、ああ、今まで生きていてよかった、と人生最高の幸せを感じながら死ぬことが出来るかもしれない。もし、家族が誰も会いに来ないと、ただ家族の将来を案じたり、幸せを願うことしか出来ず、親自身が幸せを感じることは出来ないかもしれない。親の幸せを考えるなら、親の死に目に会う必要がありそうだ。

 

まとめると、「親の死に目に会えない」というのは子供側からすればどうでもいいが、親側からすればとても残念である可能性が高い。この言葉は親目線の言葉であるというのが僕の結論だ。もし読者諸君が親のことを好いているなら、親の死に目に会いに行くことを心がけるべきだろう。もし将来、自分の死に目に子供が会いに来て欲しいなら、子供に好かれるよう手塩にかけて育てるべきであろう。僕は子供を育てる予定どころか、結婚する予定すらないので、前者のみ考えておく。

 

余談だが、なぜ夜に爪を切ると〜と言われるかというと、昔は光源が乏しく、夜に爪を切ると、よく見えないために誤って指の肉を切ってしまうことがあった。これにより当時の環境下では感染症を患い、親より先に死んでしまい、本当に親の死に目に会えなくなる可能性があった。これを防ぐためにこの言い回しが作られたのではないかという説を僕が考え、主に僕が支持している(本当にこの説があるかは知らない)。よって、現代人はしっかり電気をつけて爪を切れば問題ないと僕は思う。