思考記録場

日常生活の中で気になったことや、感じたこと、考えたことを記述するだけの場所。

思考の断片集(1)

短編小説にすらできなかった小さな想いをまとめています。それぞれの短文にあまり繋がりはございません。よってあなたがこれらの各短文に繋がりを見出した時、それは僕ではなくあなたが大切にしている想いであるやもしれません。

 

あなたが簡単に切り捨てたものが、私にとってはとても大切なものでした。あなたが綺麗さっぱり忘れ去って新しいものを身につけ始めた時、私だけがそれを大事に抱えていたのだと気づきました。

 

興味のあることに触手を伸ばし続けました。そうして心から生えていった無数の腕が絡まりあい、私は心の器を形成していきました。こいつは遠目からだと立派な器に見えましたが、近づいてみると腕と腕の間は隙間だらけで随分とずさんな仕上がりでございました。私は遠目からのみ創り上げた器を確認し、これは立派な器だ、この器で沢山の人間の想いをすくい上げよう、と考えました。しかし器はザルなので、意気揚々と器ですくおうとした無数の想いを、知らず知らずのうちに隙間から零していってしまいました。零していることに気づきもせず、私は多くの想いをすくおうと一生懸命に行動したのでありますが、大事に抱えていた器の中には何も残っておらず、私は多くをすくい上げるどころか多くを率先して消失させてしまったのでした。

 

「優しい心を大切にしてね」という先生の言葉を真に受けすぎてしまったようで、僕は心を育てることに執着しすぎたみたいです。おかげで心は立派に育ちましたが、どうやら少々育てすぎたみたいでして、何事に対しても敏感に反応しすぎるようになってしまいました。世界中の誹謗中傷が自分に向けられたように感じます。友達のヒソヒソ話が聞こえるだけで足が震えます。メールの文面が画面を突き破って身体を貫きます。誰かの大声が聞こえるだけで身が硬直します。生活の雑音を聴くだけでぐったりとします。疎遠になった友人全てに嫌われてしまったように感じて心苦しく思います。仲間だと思っていた人が仲間だと思えなくなっていきます。心を育てすぎたせいでろくなことがありません。僕もハリボテみたいな身体でニコニコしていたいです。

 

追記: ハリボテのように見えるあいつも、心の中では苦しんでいるのだろうか。

 

 

正体不明の侵略者

正体不明の侵略者がやってきた。僕らに彼らは見えないが、彼らには僕らが見えているようで、僕らは知らないうちに彼らから攻撃を受けた。僕らに彼らは見えないが、彼らから攻撃を受けていることは感じ取れるようで、ひとたび攻撃を受けてしまった僕らはたちまち重篤な症状に見舞われたり、見舞われなかったりした。なぜ攻撃を受けた人によって症状に差が生じるのかは分からなかった。いかんせん相手は正体不明なのだから、分かることのほうが少なかった。

 

正体不明の侵略者がやってきたとき、僕らは彼らを打ちのめそうと思った。なぜだか分からないが重篤な症状に見舞われる人が一定数存在するので、彼らを救うためにも侵略者は星から排除しなければならないと思った。でもその作戦はうまくいかなかった。いかんせん相手は正体不明なのだから、打ちのめしかたが分からなかった。

 

正体不明の侵略者が倒せないと思えてきたとき、僕らは彼らと和解しようと思った。彼らと対話の方法を模索して、互いが共存できる環境の構築を模索した。でもその作戦はうまくいかなかった。いかんせん相手は正体不明なのだから、対話の方法が分からなかった。

 

正体不明の侵略者に万策尽きかけてきたとき、僕ら以外の僕らは正体不明の侵略者をあまり恐れなくなった。僕ら以外の僕らは、彼らに攻撃されても重篤な症状にならない可能性があるために、そこまで恐れる必要もないのではないかと考えていた。他にも、正体不明の侵略者よりも重篤な症状に見舞われる人が悪いと考える人や、正体不明の侵略者に勝つことはできないが、決死の覚悟で最終決戦を挑もうと考える人も現れ始めた。いかんせん相手は正体不明なのだから、みんなの考えがどれも正しいように思えたし、間違えているようにも思えた。

 

正体不明の侵略者に対する意見が僕らの中で分かれ始めたとき、僕らは僕らで争うようになっていた。誰かが「正体不明の侵略者なんて大したことないさ」と発現すれば、それを聞いた誰かが「彼らのことをなめてはいけない」と言い返し、それを聞いた誰かは「見えない相手に対して臆病になりすぎなんだよ」と罵倒し、それを聞いた誰かは「そもそも正体不明の侵略者は存在するのか」、「『正体不明の侵略者』という言葉を利用して僕らを攻撃している真の黒幕がいるんじゃないか」、「実は悪いのは僕らのほうで、正体不明の侵略者はこの星を守るためにこの星が創造した抗体なんじゃないか」と口々に言い合った。相手は正体不明の侵略者なので、どの意見が正しいのかなんて分かるはずもなかったが、僕らは言い争うことを止められなくなっていた。もはや真実などどうでもよくなっていた。

 

僕らは正体不明の侵略者への作戦ではなく、正体不明の侵略者への意見で対立する僕らへの作戦を考えるようになった。誰かが正体不明の侵略者を広めようとすれば、別の誰かがその行動を制限しようとした。するとまた別の誰かが制限の抜け道を見つけ出し、別の誰かは誰かを誹謗中傷し、別の誰かは誰かを直接攻撃しようとした。そうして互いに対抗し合い、僕らは疲弊していった。

 

正体不明の侵略者は、今の僕らを見てどう思っているのだろう。

プラスとマイナス

君の吐いた息が僕にあたって

僕の吐いた息も恐らく君にあたって

そうして互いの呼吸を分け合えるほどに

君を近くに感じていたい。

 

君の腕が僕を抱きしめて

僕の腕が君以上に君を強く抱きしめて

そうして互いに好きを譲れないほどに

君を近くに感じていたい。

 

君の吐いた言葉が僕を傷つけて

僕の吐いた言葉も恐らく君を傷つけて

いつしか互いに責め立てあって

君を近くに感じなくなった。

 

君の腕が僕を傷つけて

僕の腕が君以上に君を強く傷つけて

いつしか互いにボロボロになって

 

 

 

 

 

 

お星様になったのよ

もしもペットが死んだなら、僕は地面に埋めるだろう。地面に埋めて墓を建て、天を仰いで悼むだろう。

 

もしも友人が死んだなら、僕は葬儀に出るだろう。葬儀に出たら遺影を見て、大きな悲しみにくれるだろう。そして彼のお墓を前に、天を仰いで悼むだろう。

 

もしも家族が死んだなら、僕は喪主を務めるだろう。大きな悲しみにくれる参列者に、形式だった言葉をかけるだろう。そして彼のお墓を建てて、天を仰いで悼むだろう。

 

もしも僕が死んだなら、家族は葬儀を開くだろう。大きな悲しみにくれる友人たちに、家族は形式だった言葉をかけるだろう。そして僕のお墓が建って、みんなは天を仰いで悼むだろう。

 

僕らは地面に埋まっているのに。

二十円のヤンキー

洗い物に使っていたスポンジがボロボロになった。経年劣化だ。新しいスポンジを使おうと思った。

 

スポンジは近所のスーパーで買った。五個入りで百円だった。ひとつあたり二十円である。とても安い。

 

新しいスポンジはとても尖っていた。そしてとても硬かった。水に濡らしても和らぐことはない。社会に反抗する若者のようだと思った。

 

安かろう悪かろうなスポンジを買ってしまったと思った。しかし、一度スポンジに洗剤を付けると、スポンジは驚異的な泡立ちを見せた。洗い物が捗った。硬派なやつだが、根は真面目なのかもしれない。

 

思い返せば、以前使っていたスポンジは硬派なこいつとは真逆のようなやつだった。感触は柔らかいくせに、どれだけ洗剤を使っても泡立たないスポンジだった。誰にでもヘコヘコとこうべを垂れるだけで仕事のできない無能みたいなやつだった。スポンジは見かけによらないな。

 

新しいスポンジはなかなか使いやすかったが、こいつがいつまでも根は真面目なヤンキーでいるとは限らない。汚れと洗剤に揉まれた果てにはすっかり丸くなってしまって、以前のスポンジのようにヘコヘコし始めるかもしれない。そうならないことを願いたい。

 

まあ、スポンジがヘコヘコし始めたら新しいスポンジを使えばいいだけだ。なぜならこのスポンジは五個入りで百円だったのだから。まだ四つも余っている。こいつの代わりはいくらでもいる。

 

きっと、労働力を買い叩く経営者も同じ感情を抱いているのだろう。使える間は酷使して、使えなくなったら捨てればいい。代わりはいくらでもいるのだから。

 

僕もいつかは誰かの代わりとして社会に羽ばたいて、労働力を消費されるのだろう。そして労働力が枯渇した時、僕の代わりがやってくるのだろう。嫌なリレーである。

 

とはいっても、新しいスポンジ程の価値が僕にもあるのかどうかは明らかではない。もしかしたら僕は誰かの代わりにすらなれないかもしれない。誰かの代わりになれないことは唯一無二ということで、喜ばしいことなのかもしれないと思った。一方で、価値がないために唯一無二というのは如何なものかとも思った。

 

僕には僕の価値が分からないので、誰かに僕の価値を見出していただきたいものだ。それまではこのスポンジで洗い物をしながら生活するとしよう。

 

ただ、洗い物自体は大嫌いなので、誰かが僕の代わりにやってくれるならそれに越したことはない。

そして、思い出す。

暑すぎる。まだ五月だというのに。まだ五月が始まったばかりだというのに。日本はどうしてしまったんだろうか。このままでは八月には五十度を超えてしまうのではないだろうか。いや、そんなわけないか。

 

こんなことを考えていると、去年の五月もそれなりに暑かった気がしてきた。Google先生に聞いてみよう。検索欄に『五月 気温 去年』と入力すると、Google先生は去年五月の東京の気温や名古屋の気温を教えてくれた。便利な世の中になったものである。

 

去年五月の名古屋の気温を見てみると、一日の最高気温が二十八・七度だった。初っ端から夏日を超えて真夏日に迫っていた。五月が暑すぎるのは今に始まったことではなかったようだ。なんだか安心した。

 

安心したが、暑すぎるという現状は変わらなかった。四月はちょっと肌寒いとすら思っていたのに。丁度いい気温は存在しないのだろうか。寒いか暑いしかないのだろうか。

 

五月はこんなに不快な気温をしていることを、どうして忘れていたんだろう。つい一年前にも、僕はこの不快な思いを経験していたはずなのに。

 

そんなことを考えているとバイトの時間が差し迫っていた。考え事をしていると時間が知らぬ間に消えていく。僕は急いで準備を進め、不快な気温に包まれながら自転車に跨った。

 

僕がバイト先へ向かう途中には綺麗な桜並木がある。四月はその桜を眺めながら自転車を漕ぐのが好きだった。まあ、もう五月なので桜の花は咲いていない。青々とした若葉が茂っているだけだ。青い葉を揺らすだけなら桜も平凡な街路樹に過ぎない。僕は街路樹を眺めながら自転車を漕ぐのは好きじゃない。

 

五月に桜が咲いていないことは覚えていたので、特段期待もせずに桜並木のある道に差し掛かった。だから僕は目を見張ることになった。桜が若葉をまとったその下で、ツツジが綺麗な花を咲かせていた。本音を言うと、僕は花には詳しくないので、これはツツジではなくサツキかもしれなかった。間違えていたとしても、どちらもツツジ科なので多めに見て欲しい。とにかく、花に詳しくない僕ですら、その美しさに圧倒された。とても綺麗だと思った。五月の暑さがこの綺麗な花を誘導したのかと思うと、こんな気温も不思議と心地よく感じた。

 

五月に綺麗なツツジが咲くことを、どうして忘れていたんだろう。つい一年前にも、僕はこの花を綺麗だと思ったはずなのに。

 

僕ら人間は、つい一年前のことすら覚えていられないのかもしれない。もちろん、よっぽど心に残ったことは覚えているに違いないが、五月の暑さやツツジの開花を僕が忘れていたのは紛れもない事実だった。きっと忘れてしまうことの方が多いのだろうし、忘れることで救われている面もあるのかもしれない。

 

忘れることで救われることもあるのかもしれないが、何かを忘れるということは少し寂しいことのように思った。

 

しかし、たとえ忘れてしまったとしても、五月が来る度に、僕はこの暑さを思い出すのだろう。五月が来る度に、僕はツツジの美しさを思い出すのだろう。僕は僕が気づかないうちに何度も忘れて、そして思い出すのだろう。

 

今日も僕は何かを忘れ、そして、思い出す。

耳がポンコツ

僕は耳が悪いと思う。これは聴力が弱くて音が聞き取れないという訳ではなく、聞いた内容を頭の中で処理するのが壊滅的にヘタクソということである。

 

たとえば、僕が学校で先生とこのような会話をしたとしよう。

 

先生「ちょっといい?これ職員室まで運んでくれる?」

ぼく「分かりました」

先生「先生の机に置いといてね。机の場所は分かる?」

ぼく「はい、大丈夫です」

 

一見普通の会話だと思う。しかし、僕の脳内を覗いてみると、こんな感じになっている。

 

先生「ちょっといい?これ職員室まで運んでくれる?」

ぼく「分かりました」(あ、先生だ。これ?)

先生「先生の机に置いといてね。机の場所は分かる?」

ぼく「はい、大丈夫です」(ああ、これを運ぶ…)

(これを職員室まで運ぶ…)

(職員室の先生の机…)

(なるほど、完全に理解した)

 

このように、僕は先生が述べた内容を理解するのにかなりラグがある。

 

ここでのポイントは

・先生の机の場所などを思い出そうとしている訳ではなく、先生の発言そのものを理解するのに時間がかかっていること。

・理解していないのに流れで返事をしていること。

の2点である。これは非常に厄介な問題である。実際に先生の机の場所を思い出そうとする時はさらに思考に時間がかかるし、それで机の場所が思い出せなかったとしても、会話中では既に大丈夫ですと言ってしまっている。どうしようもないポンコツである。

 

これだけではない。なんと僕のポンコツぶりがさらに顕著になる場合が存在するのだ。それは僕が何か考えごとをしている時に話しかけられた時である。

 

たとえば、僕が放課後に数学を勉強している時、先生と先程の会話をしたと仮定して僕の脳内を覗いてみよう。

 

ぼく(うーん、これは間違いなく部分分数分解ですね…)

先生「ちょっといい?これ職員室まで運んでくれる?」

ぼく「分かりました」(これは間違いなく部分分数分解…)

先生「先生の机に置いといてね。机の場所は分かる?」

ぼく「はい、大丈夫です」(部分分数分解…)

(ぶぶんぶんすうぶんかい)

(ぶぶんぶんすうぶんぶん)

(ぶぶんぶんぶんぶんぶん)

(あかん部分分数分解できへん。恒等式解こ)

(ん、そういえばさっき先生がなんか言っとった気がする…)

 

こんな感じである。僕はマルチタスク能力が壊滅的に欠如しているため、急に話しかけられると脳が対応できない。どうしようもないクソポンコツである。

 

 

僕はこんなポンコツ人間なので、人の話を聞いているように見えて実は全く聞いていなかったり、全く違うことを考えていたりする。実際に僕の友人は経験したことがあるかもしれないが、僕は会話中に「ごめん全然聞いてなかった」と言うことがある。このクズ発言は僕のポンコツさに起因するものだったのである。

 

このポンコツ具合によって最近苦しんでいることがある。それは例の感染症のせいで導入されたオンライン講義だ。オンライン講義は一般的な講義とは違い、先生のジェスチャーやアイコンタクトがない。そのため耳から取り入れなければならない情報が多くなってしまうのだが、これが僕には向いていない。与えられた音声が資料のどこを説明しているのか探しているうちに、音声はどんどん新しい内容へと進んでしまう。僕の頭では全く理解が追いつかない。

 

はやくポンコツと大学を卒業したい。