思考記録場

日常生活の中で気になったことや、感じたこと、考えたことを記述するだけの場所。

世の中は顔?それとも金?

「所詮、世の中は○○だ」という思考を、誰もが1度はしたことがあるだろう。そして、大抵○○に入る言葉は「顔」とか「金」だろう。顔がよければ人生はイージーだとか、金があれば大抵なんとかなるだとか、そんなことを耳にしたことがあるし、皆さんも少なからず納得する部分があるだろう。では、「顔」や「金」が生きていく上で1番大切なものだろうか?僕は違うと思う。人がこの世を生きていく上で1番大切なものは「エネルギー」だと考える。

 

エネルギーという言葉だけ聞くと、まるで新興宗教のように感じられると思うので、まずは僕の考えるエネルギーとは一体何者なのか、というところから話を始めたい。僕の考えるエネルギーとは、自分が何かしらの行動を起こすときに消費される物であり、目に見えたり、明確に数値化できたりするものではない。とても抽象的な物である。したい行動によって、消費するエネルギー量は違う。化学反応における活性化エネルギーをイメージしてもらえばよいと思う。端的に書くと、

思考 + エネルギー → 行動

という事だ。何かをしたいという思考だけではなく、エネルギーが伴って初めて行動できる。エネルギーが不足すると、どれだけ思考しても行動不可能だ。こういう概念的なものが僕の考えるエネルギーである。

 

さて、僕の考えるエネルギーがどのようなものか、なんとなくは理解してくれたと思うので、次に、なぜエネルギーが生きていく上で1番大切だと考えるかを述べたい。エネルギーが1番大切だと考える理由は、エネルギーさえあれば大抵の事は出来るからである。例えば、ルックスに不満を持つ人がいたとする。彼(又は彼女。本文では彼という三人称で統一するが、特にジェンダーの差別はないことを明言する)がより良いルックスを手にすることを望み、その方法として運動や食事制限、化粧、整形等を思いついたとしても、それを実際に行動に移すとは限らない。これは行動するためのエネルギーが不足している可能性があるからであり、もしエネルギーが不足していたら、行動しようとは思わず、彼はより良いルックスを手にすることが出来ない。しかし、逆にもしエネルギーが足りていたら、彼は行動することができ、見事なシックスパックや化粧技術、さらに整形をすれば理想の肉体を手に入れることが出来る。エネルギーがあれば、冒頭で述べた「顔」も手に入る可能性があるのだ。

 

顔だけではない。より金を稼ごうと行動する人は「金」も得ることが出来るだろう。それ以外にも、恋人を得ようと行動する人は恋人を得るだろうし、学問を極めようと行動する人は学問を極めるだろう。エネルギーさえあれば、この世は大抵上手くいく。

 

これに対して、エネルギーがあっても行動しない時もあるだろうという反論が予測される。これは最もな意見で、たとえエネルギーがあったとしても、我々は殺人等の非人道的行為はしない。これは我々の心理が行動を制御しているのだと考える。こればかりはどうしようもない。我々は我々という足枷を外すことができない。

 

また、行動したからといって、その結果、何かが必ず出来る訳ではないという反論が予測される。確かに、行動しても失敗する可能性はある。しかし、その場合は成功するまで続ければいいだけである。エネルギーがあれば、成功するまで行動することが出来る。失敗したまま投げ出す人は、単に成功するまで行動するエネルギーが足りなかったに過ぎない。

 

悲しいことに、このエネルギーに関する様々な値は個人差がある。ある人にとっては造作もないことが、ある人にとっては酷く難しいことがある。これは人によってエネルギーを保有できる量や、行動に対して消費するエネルギーの量に差があるためである。また、消費したエネルギーが回復するスピードも差がある。これらの値は訓練すればある程度は向上するかもしれないが、僕はまだ結論が出せない。

 

ここまでエネルギーについてかなり偉そうに文章を書いたが、僕自身はエネルギー保有量は少ないし、回復にも時間のかかる人間である。毎日騙し騙し生活している。馬鹿にしたいなら好きなだけ馬鹿にするといい。僕は僕という足枷を外すことができない。

 

あくまでこれは僕の考えであり、読者に押し付ける気はない(押し付けたらそれこそ新興宗教だ)。ただ、読者諸君が「所詮、世の中は○○だ」等と言って嘆いているだけならば、その○○を得るために、エネルギーを溜めて行動してみるのも悪くないと思う。僕自身、行動することは極めて不得手なので偉そうなことはあまり言えないが、成功者は皆すべからく行動したことは明らかだろう。

 

この文章が、世の中とは何か、生きていく上で1番大切なものは何か、等と考えるきっかけになれば幸いだ。ただし、考えすぎて世の中が分からなくなり、廃人になってしまう可能性が挙げられる。その場合、僕は例の如く責任を負わない。思考と行動は自己責任でお願いします。