思考記録場

日常生活の中で気になったことや、感じたこと、考えたことを記述するだけの場所。

賽が投げられない

まえがき

前回の記事を読んだ数人から、面白いとお褒めの言葉を頂いた。非常に嬉しく思う。僕がこのブログで書く文章は、「僕が書きたい内容で、面白い文章」と、「僕が書きたい内容で、面白くない文章」の2種類に分けられると思うが、お褒めの言葉を頂いた前回の記事は前者であり、今回の内容は後者である。正直に言うが、僕は今回の文章を読み返してみても全く面白くない。面白い話を期待する人は読まない方がいいと思う。面白くなくても読みたいという危篤な人はそのままお進みください。

 

本編

コインには表と裏がある。表と裏は違う物のように見えるが、どちらも同じコインである。これは僕の心にとても似ていると思う。

 

僕は2つ(もしくはそれ以上)の感情を同時に持つことが多い。例えば、僕は生物が好きなので、将来は研究者となり生物の理解を究めたいと思っているが、それと同時に、研究者にならず地元に戻り、一般的な就職をし、一般的な結婚をし、一般的な人生を歩みたいとも思っている。人によってはこの2つの感情を建前と本音というように区別するだろう。しかし、僕にとってはどちらも本音である。研究者になりたいという感情と、なりたくないという感情は相反するように感じるが、これはどちらも僕の本心であり、コインの表と裏の様な関係で僕の心に存在する。この例のように、僕は何事においても2つ(もしくはそれ以上)の感情を持ち、どれを選択し、どれを肉体を介して他者に表現するべきか、いつも悩んでいる。

 

上の例において、研究者になりつつ地元に戻り、一般的な人生を歩めば良いと考える人もいるだろう。僕もそれが最適解であると考える。しかし、僕にとってそれを遂行するのはあまりにも難しすぎる。僕は研究者として就職先を選べるほど賢人ではない。研究者を目指すのならば、僕を研究者と認めてくれる機関の元へ僕が行かなければならないだろう。それはたまたま地元であるかもしれないし、外国であるかもしれないが、僕に場所を選択する程の力はない。僕は選択される立場になる。僕にとってこの最適解はコインの側面であり、確率としてはほぼ0だ。

 

文章が捻れてしまったように感じる。結論として僕が言いたいことは、僕が心の中にコイン(もしくはサイコロのような多面体)を得た時、いつかはそれを投げて、ひとつの解を出さなければならないということだ。賽は投げなければならない。賽を投げないという選択肢は思考放棄であり、個人的に許せない。しかし一方で、すぐに賽を投げてしまうのは思考不足であるように感じる。結果として、僕はいくつものコインやサイコロを手に持ったまま悩み苦しみ続けるのだ。僕は優柔不断だ。

 

この時、どの面が出るかは同様に確からしくないと思う。僕は少しでもよい確率で側面や頂点が出る瞬間が来ることを願い、賽を持ち続けている。

 

さて、あなたは心の中でコインを握りしめているだろうか?この問を投げかけて今回のブログを終える。この文章が読者諸君の心を見つめ直すきっかけになれば幸いだ。

 

終えると言いつつ、終えない。最後に、この文章を読んで、あなたが自分の心を見つめ直し、その結果自分の心が分からなくなり、病んでしまう可能性が挙げられる。その場合において、僕は一切の責任を負わない。負い方を知らない。心を見つめ直すのは自己責任でお願いします。